陰徳を積むって言葉は、ものすごく壮厳で威厳があるけど、本当の意味って、みなさんわかってないんじゃないのかなって思うな。
実は、僕もよくわかっていないけど、どうも世間で言う陰徳を積むことの大事さを説いている人と僕の感得は違うな。
今日は、平凡やや貧乏な家に生まれて、平凡ややパッとしない私の人生から得た陰徳を積む本当の意味を書きたいと思います。
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順風満帆な若い頃
僕は、平凡やや貧乏な家に生まれた。
もっと詳しく言うと、中の下くらいかな。
でも、ふつーに小学校、中学校を過ごした。
ただ、ひとつ後から思えばやっかいなことがあった。
それは、母の口癖で、「お金がない お金がない」だった。
後々で気付くと、もうその頃からの意識の刷り込みは、知らない内に強烈に刷り込まれるものだった。
高校生から、アルバイトに明け暮れ、お金は結構持っていた。
その後、大学生を終え、相変わらずバイトに明け暮れていたが、お金はかなり持っていた。
社会人になってからも、愛読書は自己啓発関連の書籍を多読してその通りに実践した。
結構いい結果が出て、若くして役職について、まぁまぁ活躍していた若い頃だった。
人生に困り果てて
30才を越え、年収も人の3倍くらい稼いでいたかな。
でも、決して驕り高ぶっていた訳でもなかった。
出来の悪い後輩も部下も可愛がってあげたし、先輩や上司も可愛がられた。
会社の花見や飲み会では私が音頭をとって、幹事をしてやっていたかな。
いま思い出しても、営業成績はいつもトップグループ、会社のレクリエーションでは幹事役、社長や専務にも好かれていて、頑張ったことが結果が出ていた時代だった。
だが、30代半ばになって、急に原因不明の病になってしまった。
あーこれは大変だった。
あらゆる病院に行っても治らない病だった。
身体がうまく動いてくれなかった。
でも、民間治療をして、家でゆっくりしていると、自然に治ってくれた。
ただ、会社復帰しても、以前のようにガムシャラに働くことができなかった。
今思うと、私の魂がお金や人から賞賛を受けて、幸せを感じるタイプではなかったのだなとそれから15年たって気付いた。
陰徳を積むといいと言われて
それから、僕は今までしていた営業という仕事を辞めて、休日にはいろいろな精神世界のセミナーを受けたりして、今でいう自分探しのようなものをしていた。
自分探しというよりも、自分の内面探しかな。
毎日曜日、朝早くから山の麓のお寺に行って、お寺の庭を掃除して講話を聴いて、座禅を組んだり、滝で瞑想したりしたな。
今思えばこれもいい思い出かな。
また強烈な自己啓発セミナーに参加して、高額なお金を取られ、大変な目にもあったな。
質の高いところでも、お金儲け主義の質の悪いところも、言うことは世のため人のためになることをしてきなさいと言っていた。
陰徳を積みなさいということかな。
人の為になることをするとうのは、確かにいい響きだ。
難しく言うと「陰徳を積むってことかな」って思うけど、なぜか心にピンと来ることはなかった。
素晴らしい先生と出会って
その後も自分探しの日が続き、もうこういうことはやめようかなって思っていた矢先に、素晴らしい先生と出会えることになった。
何しろ今までのご教授頂いた先生方とは、まったく相容れなく、お会いする前から緊張する先生だった。
その先生とお会いして、今までの私の人生の整理と、「どう生きていけばいいのか」質問したような記憶がある。
何しろただならぬ緊張状態だったので、あまりよく覚えていないが、今思うと霊性の非常に高い方だったので、私の魂が慌てふためいていたような気がする。
その先生からも、陰徳積善をしなさいと言われ、帰ってきた。
陰徳を積む本当の意味は
陰徳積善をしなさいと言われたものの、何をどうしたらよいのやら、と悩んだものだった。
ただいいことをして、それを黙っていることかな程度に思っていた。
とにかく、それから思うままに陰徳を積もうと努力した。
・家の周り、河原、駅周辺のゴミ拾い
・上司や先輩の仕事を手伝う
・人にふんだんの笑顔を振舞う
・親に感謝する
・親の手伝いをする
・嫌なことや腹の立つことがあっても、露骨にあらわさない
・物を大切にする
・電車やバスで老人や子供に席をゆずる
・家や部屋の掃除を入念にする
・人を責めない
・余裕があったらおごる
・食事を感謝していただく
なんか小学生の夏休みの課題のようだが、自分の魂のレベルがこの程度なので、仕方なかった。
でも、やればやるほど、こんなものが陰徳を積むっていうことかなって疑問に思ってきた。
陰徳を積むという本当の意味が、だんだんわからなくなってきた。
難解な数学の問題を解くより、難しく思えた。
よーく世の中を見渡してみると
とにかく自分の思う限りの陰徳を積むことをしてわかったことは、世の中でいかにもいいことしてますって顔している人は、なんか偽物に思えてきた。
「どこどこの国に寄付した」
「老人福祉にお金を寄付した」
なんかいかにも、人のためにやってますって言う人は、見栄か社会的評価のためにしているような感覚を覚えた。
全員が全員とは言わないが、政治をされている先生方も本当に世のために人のためにされているのかなって思える気がした。
ようやくわかりかけた陰徳を積むという意味
世間を広く見渡してみると、自分の社会的評価のためにいいことをしている人がいる。
だから公然としたことを人様に言う。
陰徳とは、陰で徳を積むことだから、人に言わないことだ。
なぜ人に言うのかっていうと、人に言うとこの世での社会的評価につながるからだ。
だから、陰徳を積むってことは、この世とは何の関係もないこととわかった。
そうすると、陰徳を積む本当の意味とは、もしかするとあの世のためかなって思えてきた。
あの世を意識すると
本物と偽物の人間がなんとなくわかってきた。
初めは、僕もこのような人になりたいなって思う人を本物と思っていた。
その真逆に、こんな人になりたくないって思う人を偽物と思っていた。
それも、遠からず近からずであったが、実際に自分なりに陰徳を積んでみようって思って、自分なりにしていくとなんかよく見えてきた。
本物と言われる人は、陰徳を積んでいるってことは露にももらさずに普通に生活をしていた。
しかもなんか質素な生活をされていた。
その逆に、偽物で陰徳を積んでいる人は、贅沢な生活をしていた。
陰徳を積むとは、誰にも言わずにすることだが、結構いいことをしていると周りに知られていた。
この二つを比べると、この世で評価を受けるために陰徳を積んでいる人が偽物に見えた。
本物の陰徳を積んでいる人は、あの世のためにしているように見えた。
本当に陰徳を積んでいる人達
僕が見て、本当に陰徳を積まれている人は、素晴らしかった。
そのような人と接していて感じたことは、まるで慈悲深い如来様や菩薩様と同じ時間を共有しているように思えた。
なんか自分の身の内の愚かさや罪深さが、恥ずかしく思えた。
そして謙虚に謙遜に生きていかないかんなと教えてもらっている感じがした。
陰徳を積むという本当の意味
私が思う本物の人と接して、陰徳を積むとう本当の意味がわかってきたような気がした。
そのような人を接すると、如来様や菩薩様と時を過ごさせて頂いている気がしました。
自分の人間としての、未熟さや不完全さを教えてもらっているような気がした。
本物と思える人が、如来様や菩薩様のように見えるということは、陰徳を積む本当の意味は、あの世のためかなって、自然に思えるようになってきた。
だれに強要されることもなく、だれに押し付けられることもなく、ごくごく自然に。
この世ですべてが終わるのであれば、だれの心の中にも、本心や良心というものは生まれないだろうなって思う。
なんかいいことしたなっていうときは、なんか心が微笑ましく思う。
なんか生まれてきた赤子のような気分になる。
やっぱりあの世ってあるのかなって思えてくる。
人生の目的
私は、人生の本当の目的は、あの世にいくための準備する期間と思えてきた。
やはりいい霊界に行きそうな人は、いい陰徳を積まれていた。
なんか胡散臭いなって思う人は、あまりいい死に際しないだろうなって感じた。
そんな人は、陰徳どころか公然と陰徳を言われていた。
私のこの感得をもとに考えると、この世はあの世のためにあり、陰徳を積む本当の意味は、あの世に捧げるためかなって思えてきた。
僕は思う
陰徳を積む本当の意味は、あの世に捧げるためかなって思う。
だから、この世の目的は、この世のためでなくてあの世にいくためかなって。
だからさり気なく、陰徳を積むってことを文字通り黙って行っていこうと思う。
そうすると、なんか年をいくのも素敵だなって思う。
いいあの世に近づいていくんだなって。
おわりに
精神世界の人やいろんな人が、いろんなこと言われているが、僕なりに経験を通じて陰徳を積む本当の意味を感じてみた。
これは考えたのではなく、感じえたものだった。
この世はあの世のためにある、こう信じて年をとっていきたいものだ。